アダム・スミス氏: 乞食だけが補助金や給付金にすがる、そうでない人々は自分の成果を他人と交換する

マクロ経済学の父として知られるアダム・スミス氏の『国富論』より、社会・経済における他人との人間関係について書いた部分を紹介したい。

人間の性質

国富論』はマクロ経済学という概念を発明した歴史的名著であると同時に、社会のあり方について論じた人間関係の本でもある。

そしてそれは現代のマクロ経済学の専門書とは違い、非専門家でも分かるような平易な説明で書かれている。(当時はマクロ経済学者など居なかったのだから当たり前である。)

スミス氏によれば、人間と動物の根本的な違いは交換をすることである。スミス氏は次のように書いている。

犬が別の犬と公平で用意周到な骨の交換をするのを見た人はいない。

人間は物々交換から始まり、最終的には貨幣経済を発達させた。それは自分たちの労働の成果を互いに交換するためのシステムである。

だが動物の世界ではどうだったか。スミス氏はこう説明している。

動物が人や他の動物から何かを手に入れたいとき、それをくれる相手の好意を手に入れるほか手段はない。子犬は母犬に甘え、夕食のおこぼれが欲しい犬はあらゆる芸をして主人の興味を惹こうとする。

人間は交換する

だが人間の場合、それを単にやらないどころか、それだけで生きてゆくことはほとんど難しい。

スミス氏は次のように続けている。

だが人間には常にその時間があるわけではない。文明社会では人間はあらゆる助けや協力を必要としているが、人の一生は何人かの友を得ることにさえ十分ではない。

人間が行うあらゆる買い物を、お金を払うことではなくすべての店の人の好意を得ることで行なっていたとしたら、パンを得るだけで何日かかるか分かったものではない。

だから人間は交換する。それをスミス氏は次のように分析している。

人間は他人の自己愛を自分の利害を結びつけ、自分のやってほしいことをやってくれれば彼らにとっても利益になるということを示す方が成功しやすいだろう。

わたしの欲しいあれを下さい、そうすればあなたが欲しいこれをあげますから、というのがそうした提案の意味するものである。

そしてそれこそが人間が自分の必要とするものの大部分を互いに手に入れるための方法である。

相手の好意か利害か

スミス氏によれば、それが人間と動物の違いである。彼はこう続ける。

人間は肉屋や酒屋やパン屋の情けではなく彼らの利害に働きかけることによって食事を手に入れようとする。

人間は相手の慈悲ではなく自己愛に語りかける。つまり、自分の欲求をもとにものを言うのではなく、相手の利害を念頭に相手に話しかけるのである。

ここが重要な箇所ではないか。相手の好意を得ようとする人間の念頭にあるのは自分の利害である。しかし交換を持ちかける人間は、自分だけではなく相手の利害をも考慮に入れなければならない。

相手の利害を思いやる交換こそが社会を物質的に豊かにしてゆく。自由な交換を目指した考え方が、自由市場経済である。

しかし近年では人々が自分の欲しいものを自分のお金で買うのではなく、社会に必要なものを政治家が決め、人々から取り上げた税金で代わりに購入する、政府支出が幅を利かせている。

自由な交換と相容れない政府支出

政府支出を大幅に減らし、アルゼンチンを通貨安とインフレから救ったハビエル・ミレイ大統領はそれを批判していた。

ミレイ氏は政府の支出は無駄を積み上げるだけだと批判するオーストリア学派の経済学者でもある。だが本来、こうした考え方はオーストリア学派の経済学だけのものではなかったはずだ。

上に見たように、それはマクロ経済学の父であるスミス氏の頃からの思想のはずなのである。

しかし今では国民が必要なものを政府が勝手に決めたり、政府が自分の裁量で自分の票田に補助金や給付金をばら撒く政府支出が流行っている。

それはどういう心理で支持されているのか。交換によってものを手に入れようとしない人々について、スミス氏は次のように書いている。

乞食だけが同胞市民の情けに依存しようとする。いや、乞食でさえも完全に情けに頼り切ることなどしない。

自分自身は何も提供しなくてもお金が降ってこればラッキーというわけだ。

だがそれは乞食よりも悪い。何故ならば、情けを期待した乞食に誰かが食事を与えるならば、両者の間には合意が存在している。

しかし補助金を受け取る政治家の票田と、政治家から資産を奪われる別の国民との間には合意が存在しない。

だからオーストリア学派の代表的な経済学者であるフリードリヒ・フォン・ハイエク氏は、補助金のことを正直にも窃盗と呼んだのである。

ミレイ氏はそれを暴力と呼んだ。

政府支出を善とするケインズ経済学の蔓延によって、こうした考えはオーストリア学派だけに残る少数派のものとなってしまった。

しかしそれも少しずつ変わりつつある。アルゼンチンは、インフレ政策によるハイパーインフレを経験したからだが、ようやくインフレ政策は政治家とその票田を利するだけだと気付いた。

世界は少しずつスミス氏の経済学に回帰しようとしている。だから今こそ『国富論』を読むべきなのである。


国富論