アメリカの元財務長官で経済学者のラリー・サマーズ氏がダートマス大学で、政治問題で揺れるアメリカの大学について話している。
大学と政治問題
アメリカでは大学が政治問題で揺れている。イスラエルとパレスチナの戦争に関してガザへの支持を表明した学生が罰せられたり、内定を取り消されたりしている。
サマーズ氏はアメリカの財務長官だったが、ハーバード大学の学長でもあった。そして大学における言論の自由に大いに関係する人物でもある。何故ならば、彼はハーバードで、理系分野での能力の最上位と最下位には女性よりも男性の方が多いという発言をして学長の座を追われているからである。
サマーズ氏のこの発言は能力のばらつき方における男女差に言及しただけのものだったが、最上位に女性が少ないという部分だけが切り取られて問題化され、不信任に追い込まれた。
能力のばらつきに性差があるかないかという問題を客観的に議論することは、むしろ大学の使命であるはずである。だがそれはフェミニストたちの感情によってサマーズ氏もろとも排除された。
それがアメリカの大学である。大学におけるそのような政治的偏りの問題は、今でも変わらずパレスチナ問題などに尾を引いているように見える。
クリントン政権の財務長官も務めた民主党員のサマーズ氏が、珍しくもリベラル的な価値観に異を唱えて次のように言っている。
大学は社会において何が正しいかばかり話しており、学問において何が正しいかがなおざりになっている。
大学は人の出自や人種ばかりを話しており、人間全般に普遍的な価値観について話していない。
大学教授の政治的偏り
何故そうなるのか。サマーズ氏によれば、それは大学教授という集団が政治的に偏っているからだと言う。
サマーズ氏は次のように述べている。
わたしは財務長官だったが、ワシントンではわたしは左派の中で右側の部分に位置していた。わたしは民主党員だから左側だが、その中では保守的な側だった。
だが大学のコミュニティではわたしは余裕で右派の中の右側扱いだった。わかるだろうか? それが問題なのだ。
そもそも左派の多い大学の中では、左派の中で右派であるサマーズ氏は右派だと見なされた。
何故大学教授という集団は左側に偏っているのか? サマーズ氏は以下のように分析している。
単純な事実だ。資本主義が好きな人、少なくとも悪くはないと思っている人には、色々な選択肢がある。会社で働くことも出来れば、他のところで働くこともできる。
だが資本主義が嫌いで、企業利益が嫌いなら、選択肢はかなり限られる。
NGOで働くか、新聞記事を書くか、大学で働くかだ。
だから大学で働くことになった人々には、平均的に資本主義に対して一定の見方や態度を持ってしまっていると考えるべき確かな根拠があるのだ。
それは同時に、NGO職員や新聞記者が偏っている理由でもある。
結論
サマーズ氏は、ポリティカル・コレクトネスばかり気にしているアメリカの大学に次のように苦言を呈している。
大学は、自分の人生を大学で過ごすと決めた人によって政治化されてしまっている。
大学はもっとも重要な種類の多様性、すなわち考え方の多様性を保証するようにもっと努力しなければならない。
多様性を声高に主張する人々が考え方の多様性を誰よりも受け入れないのは、皮肉な事実である。
大学教授になると決めたこと自体が1つのバイアスであるという事実は、経済学においても大きい。例えば、スタンレー・ドラッケンミラー氏が大学教授になる道を捨ててファドマネージャーになった理由は興味深いかもしれない。