引き続き、How Leaders Leadによるスタンレー・ドラッケンミラー氏のインタビューである。今回は1980年に始まるポール・ボルカー議長によるインフレ打倒をドラッケンミラー氏がトレードした話を紹介する。
インフレ相場の終わりとファンド創業
これまでの記事ではドラッケンミラー氏が自分にお金を出してくれる人を見つけて自分のファンドを立ち上げたところまで話した。
それがいつだったかと言えば、1970年代の物価高騰のクライマックスだった。
ドラッケンミラー氏はこう話している。
ボルカー氏がFed(連邦準備制度)の議長になった。
ボルカー議長は、1970年代の物価高騰の時代の最後に着任し、厳しい金融引き締めでインフレを終わらせた人物である。
このタイミングでファンドを立ち上げたことをドラッケンミラー氏は次のように語っている。
わたしは引きが良かった。
何故ボルカー氏の就任がドラッケンミラー氏にとって幸運だったのか。それはドラッケンミラー氏がこの相場で大きな利益を上げたからである。
インフレのクライマックス
ドラッケンミラー氏は当時の状況を次のように説明している。
ウォール街では皆インフレ率は25%まで行くぞという話をしていた。国債の金利は14%ぐらいだった。誰も債券を買おうとしなかった。
インフレ率が上がれば金利を上げなければならない。債券は金利が上がれば価格は下がるので、インフレと金利が両方更に上がってゆくことを誰もが予想していた時代、誰も債券を買いたがらなかったのである。
しかしドラッケンミラー氏はそうは思っていなかった。彼は次のように語っている。
だがわたしはボルカー氏が喋っているのを聞いた。そしてわたしは「何てことだ、この男は正気じゃない。インフレを打倒するためならば何でもやるだろう」と思った。
そしてボルカー氏は金利を20%辺りまで上げた。インフレ率は12%か13%だった。だからわたしは心の中で、ボルカー氏は経済を破壊してインフレを破壊するだろうと思った。
今ではボルカー氏は1970年代のインフレを終わらせた人物として有名である。だが当時は誰もそうなるとは思っていなかった。
ドラッケンミラー氏だけがそこがインフレのピークだと考えていた。インフレ率がピークを迎え下落するということは、金利もそこがピークだということである。
金利がこれから下落してゆくと予想したならば、金利低下は債券価格上昇を意味するから、ドラッケンミラー氏にとっては国債は買いだということになる。
ドラッケンミラー氏は次のように続けている。
だからわたしは全資金の50%を30年物国債に割り振り、残りを現金とした。株式は買わなかった。それは当時異端のポートフォリオだった。
だがそれは大当たりだった。アメリカの長期金利はまさにドラッケンミラー氏がファンドを創業した1981年に大天井を迎えているからである。
結論
これがドラッケンミラー氏のファンドマネージャーとして初めての仕事だったのだから、伝説的なストーリーである。
ちなみにインフレ退治はこのように簡単に語られてはいるが、実際にはアメリカ経済は高金利に苦しみ大量の失業者が出ることとなった。
景気後退にならなくてもインフレは収まるのかという話があるが、はっきり言っておく。景気後退にならなければインフレは収まらないし、景気後退になっていないならば、インフレはまだ収まっていないのである。
この時期の話をボルカー議長自身が語っている記事もあるので、そちらも参考にしてもらいたい。