少し間が空いたが、引き続きLow Leaders Leadによるスタンレー・ドラッケンミラー氏のインタビューである。今回は大学で学ぶ経済学について語っている部分を紹介する。
経済を予想する仕事
以前の記事でドラッケンミラー氏は、経済を予想して利益を上げる投資家の仕事の面白さについて語っていた。彼は次のように述べていた。
投資とは常に世界をパズルの集まりだと考えてそれを解くことだ。
ドラッケンミラー氏はこれまで、1992年のポンド危機や2022年の物価高騰など様々な出来事を予想し、平均で年率30%以上の利益を上げている。
ではドラッケンミラー氏はどのようにして経済を予想できるようになったのか。ドラッケンミラー氏はまず大学に入って経済学を学んだのだが、博士課程を中退して金融業界で働き始めている。
経済学者にならなかった理由
今では経済を予想することにかけて世界で数本の指に入るドラッケンミラー氏は、そのまま経済学を学んで経済学者になる道を選ばなかった。
何故か。ドラッケンミラー氏は次のように振り返っている。
学部で学んだ経済学は好きだった。限界費用や神の見えざる手などだ。
見えざる手というのは、当然ながらアダム・スミスの『国富論』に出てくる言葉である。
ドラッケンミラー氏が好んだ経済学とはどのようなものだったか。『国富論』から引用すると、見えざる手の議論が載っている箇所には次のように書いてある。
経済人はしばしば、自分の利益を追求することによって、彼が社会の利益を目指して努力する場合よりも効果的に、社会の利益を推進する。
利益を追求する個人の行動が自然と社会の利益となる様子が「見えざる手」に導かれているようだとアダム・スミスは言っているのである。
しかし利己的な人々が本当に社会のためになるのだろうか? 元々社会の利益を目指して行動する人々の方が、資本主義者よりも社会のためになるのではないか?
だがアダム・スミスは次のように続ける。
公共の利益のために仕事をするなどと気取っている人々によって大きな利益が達成された例をわたしはまったく知らない。
なかなか手厳しい意見である。だが政治家が誰の利益のために動いているのかを考えれば、それは明らかだろう。
ドラッケンミラー氏が学生時代にもこういう経済学を好んでいたのは不思議ではない。彼は政治家が国民から税金を取り上げて自分に献金してくれる企業や票田にばら撒くことを仕事にしていることを厳しく批判しているからである。
経済を予想できない経済学者
だがドラッケンミラー氏はそのまま大学で経済の研究をする道を選んだわけではなかった。
何故か。彼は大学院に進んだ後のことについて次のように語っている。
だが大学院の経済学は世界を数学の方程式に無理やり詰め込もうとしていた。わたしはそれが無理だと思った。
中央銀行にいる800人の博士号取得者の経済がいつも当たらないことを考えれば、当時のわたしの考えは正しかったと言えるだろう。
経済学者の経済予想は当たらない。当たり前である。経済予想が当てられたなら、その人は経済学者ではなくファンドマネージャーになるだろう。
だから大学や政府には経済の分かる人間は基本的に行かないのである。例外はアメリカの財務長官を務めたラリー・サマーズ氏だろう。彼だけは本物のマクロ経済学者である。
経済を予想できる経済学
だから一部の優れたヘッジファンドの持っている経済の知識は、経済学者たちの知識の数十年先を行っている。ポール・クルーグマン氏がノーベル経済学賞を獲得しているのは、ヘッジファンド業界から見れば冗談のようなものである。
だからドラッケンミラー氏は大学で経済学者になる道を選ばずに資産運用業界を選んだのである。彼は次のように述べている。
世界の仕組みを知りたかった。それは数学の方程式に詰め込めるようなものではないと思った。
だが大学院の人々は自分たちの数理モデルを信じていた。それは馬鹿げたことだった。だからその道を選ばなかった。
だが過去を遡れば、優れた経済学者は存在する。『国富論』は今なお読んでおくべき本である。あるいは、フリードリヒ・フォン・ハイエク氏も同じ内容を言っていた。
経済学はケインズからおかしくなったのである。
国富論