アダム・スミス氏、通貨の価値が下落しても一般の人々が気づかない理由を説明する

世間ではインフレや通貨安の問題には気付き始めているようだが、ほとんどの人々は自分の持っている日本円が下落しているという事実に危機感を持っているようには見えない。だがインフレや通貨安は、ものの価値が上がっているのではなく自分が貯金している日本円の価値がなくなってゆくことなのである。

何故人々はそれに気づかないのか。アダム・スミス氏は『国富論』においてそれを解説してくれているので、ここで紹介したい。

インフレと通貨の価値

例えば仮に紙幣印刷や現金給付で物価が倍になったとすれば、それは紙幣の価値が半分になったということである。別に紙幣を印刷したから世の中に存在する商品の価値が2倍になったわけではない。紙幣の印刷と商品の価値に因果関係はない。

それはものの価値が上がったのではなく、中央銀行や政府の行動によって紙幣の価値が下がったのである。だがインフレを嘆く人々も、そのほとんどは相変わらず価値の下がってゆく紙幣を財布に入れたまま、それをどうしようとも思っていない。

金貨の価値と銀貨の価値

何故なのか。スミス氏は金貨と銀貨を例に上げて説明している。

例えばギニー金貨の法定価値が20シリング銀貨に引き下げられるか、あるいは22シリング銀貨に引き上げられ、すべての会計や債務の支払いが銀貨で計算されたままなのであれば、どちらの場合も銀貨での支払いは同じように行われ続けるだろうが、金貨での支払いはまったく違うものになってしまうだろう。

元々銀貨21枚あれば金貨1枚が手に入ったものが、銀貨20枚で1枚手に入るようになったり22枚なければ1枚手に入らないようになったりする。

あたかも金貨の価値が上がったり下がったりしているようである。しかしよく考えてもらいたいのだが、これはゴールドの価値が変化してもシルバーの価値が変化しても起こる現象である。

仮にシルバーの生産が増えて価値が薄まったとしよう。すると21枚で金貨と交換できていたのが、22枚なければ交換できなくなる。

しかし金貨の交換レートが銀貨21枚から銀貨22枚になりましたと書かれれば、あたかも金貨の価値が変わったように見えてしまう。

価値の尺度としての通貨

銀貨が基準になっていたスミス氏の時代には、銀貨を価値の尺度として他のものの価値を計るので、価値の尺度となっている銀貨そのものの価値の上下には人々は気づきにくいのである。

スミス氏は次のように書いている。

見かけ上、銀貨の価値は金貨の価値よりも変わらないように見える。銀貨が金貨の価値を計っているように見え、金貨が銀貨の価値を計っているようには見えない。

ただこの違いは単に帳簿の付け方、あらゆる金額を金貨ではなく銀貨で計算するという慣習による見せかけに過ぎない。

金貨と銀貨で考えれば、金貨で銀貨を計ることもできれば銀貨で金貨を計ることができると理解するのは比較的簡単である。

しかし自国通貨がほとんど絶対的な価値の尺度となっている現代社会では、自国通貨の価値が変わるという事実を認識できる人は少ない。

日銀の円安政策で日本円の価値が下がりドル円が上がったとしても、人々は「海外旅行は高くなった」と言う。だがそれは違う。海外旅行は高くなっていない。あなたの持っている日本円の価値が下がっているのである。

だから紙幣印刷でものの値段が上がることの意味に気付くべきである。アベノミクスで株価が上がって喜ぶのも良い加減にすべきだろう。それは実際には日本円と日本経済の価値が下がっているのだが、日本経済に影響されにくい輸出企業の価値は変わらないので、減価された日本円から見れば価値が上がっている「ように見える」だけである。

減価されている紙幣でものの価値を計るのを止めるべきだ。だから人々は「ものの値段が上がった、生活がしんどい」などと言うのである。実際には自分の財布の中の日本円の価値が下がっているのであって、ものの価値は変わっていない。

だから人々は商品が手に入りにくいことを嘆くのではなく、自分の財布の中に価値の下がっているものを入れ続けるべきなのかを考えるべきなのである。

Bridgewaterのレイ・ダリオ氏などが同じ指摘をしているが、スミス氏の『国富論』には経済学のほとんどすべてが平易な説明で書かれている。しかし価値あるものを読む人は少ない。


国富論