高齢になりすっかりメディア露出が少なくなったヘッジファンドの先駆者ジョージ・ソロス氏だが、彼の論説を補うために自伝的著書である『ジョージ・ソロス』から彼の投資アイデアを紹介しよう。
グローバルマクロ戦略のリスク管理
この本はまず今は亡きバイロン・ウィーン氏によるソロス氏のインタビューで始まる。
その中からこの記事で取り上げたいのはファンドのリスク管理のことである。
ソロス氏が創始したグローバルマクロ戦略では、レバレッジ(信用取引)を使って複数の市場で同時に賭け、しかも買いも空売りもやる。
そうした戦略ではポートフォリオがかなり大規模になる。個人投資家の多くは株式の買い持ちしかしない一方で、グローバルマクロのファンドでは他にも債券市場や為替市場でも買いや売りのポジションがあるからである。
例えば株式市場で資金の100%を賭けていて、それに加えて債券市場で資金の250%の賭けがある場合、ポートフォリオのリスクはどうなっているのか? リスクは単純に足し合わされるのか? それとも債券市場でのポジションは株式市場でのリスクを緩和してくれるのだろうか。
数学的なリスク管理
リスクを計算する方法についてウィーン氏に聞かれたソロス氏は次のように答えている。
リスクを計測するための科学的ではっきりしたやり方は使わない。デリバティブを扱っている人々は非常に洗練されたリスク計算の方法を使っている。それに比べてわれわれは素人のようなものだ。石器時代のレベルだよ。わざとそうしているのだが。
こうしたリスクを計測するために金融工学は様々な技法を発達させた。先物やオプションなどのデリバティブ市場では、最先端の金融工学を駆使して手計算では出来ないようなリスク計算をエクセルやプログラミングを使いながら行なっている人々が大勢いる。
だがソロス氏はそうした手法を使わないという。しかも「わざとそうしている」という。
数学的リスク管理の盲点
ソロス氏はその理由について次のように説明している。
何故ならそういう手法を信じていないからだ。リスク計算のための科学的な方法は一般的に効率的市場仮説の仮定の上に築かれている。
だが効率的市場仮説は人の理解の不完全さと再帰性に基づくわたしの理論と矛盾している。
ソロス氏の投資理論は「市場は常に間違っている」という信念に基づいている。そして投資家の間違った見解が市場での売買という形で現実に反映され、その現実に対して別の参加者が間違った見解をそこに重ねる。
それがソロス氏の再帰性理論である。間違った見解は互いに強化し合いながらバブルを作ってゆくが、やがて臨界点が来てすべてが崩壊する。
だが数学的な金融論ではそういう議論は無視される。例えばあるポジションのリスクはどう計算するか? 例えばボラティリティを計算する。ボラティリティとはある資産価格の上下動の激しさを示す数字である。
ボラティリティには2種類ある。その資産価格が過去にどのようなボラティリティで推移したかというヒストリカル・ボラティリティと、市場が予想する将来の上下幅であるインプライド・ボラティリティである。
だがどちらで計算しても「実際の将来のボラティリティ」とは違うものになる。将来の資産価格の振れ幅は過去の振れ幅からは予想できないし、市場予想も外れる可能性が大いにあるからである。
1%のリスクシナリオ
この議論を取り違えて1999年に世界を金融危機に巻き込みそうになった巨大ヘッジファンドがある。LTCMである。
LTCMは、まさにデリバティブ市場の人間が毎日使っているブラックショールズ方程式を発明した1人であるノーベル経済学賞受賞者のマイロン・ショールズ氏を主要メンバーに迎えた金融工学のヘッジファンドだった。
だがこのLTCMは自らがテン・シグマ(統計的にほとんど起こることが有り得ない)と想定した1998年のアジア通貨危機とロシア財政危機の抱き合わせによって破綻した。
それは実際にテン・シグマ(地球が滅亡するまでに1回起こるかどうかという確率)が1998年に起こったということではない。ソロス氏の指摘した理由で彼らの数学的な確率計算が間違っていたのである。
ソロス氏は次のように述べている。
科学的で定量的なリスク計算は99%の場合は正しく機能する。だが1%の場合でそれは誤る。
わたしはその1%の方に興味があるのだ。
その1%とは、ソロス氏の言葉で言えば市場の間違った想定が臨界点に達し、市場が逆方向に動き始める時である。
だが金融工学に「認知の歪みの巻き戻し」などという概念はない。金融工学は市場は同じように過去から未来へ繋がってゆくと想定する。
ソロス氏は次のように主張する。
そうした数学的な想定は市場の継続性を前提としているが、市場にはそういう想定には収まりきらないある種のシステミック・リスクが存在している。
わたしはむしろ市場の連続性が途切れるところに特に興味がある。だから数学的なリスク管理の方法はわたしにはほとんど役に立たないのだ。
結論
ソロス氏の指摘するこの問題は、LTCMのような巨大ファンドだけが体験する問題ではない。投資家がポジションのサイズを決めるとき、その問題は常に存在しているのである。
ある株を買うとき、ポジションの大きさは資産の5%にするべきか? 10%にするべきか?
リスク管理という概念を少なくとも知っている個人投資家なら、ポジションのサイズを決めるのにこれまでの株価の上下動の激しさを参考にリスクを考えるかもしれない。
それはヒストリカル・ボラティリティである。あるいはもう少し勉強した投資家なら、オプション市場の示唆するインプライド・ボラティリティを参考にするかもしれない。
だがどちらもその投資の将来のリスクを本当に示す数字ではない。どちらも将来のボラティリティを予想するためには使えない数字なのである。
結局、ボラティリティの予想は株価の予想と同じように、自分で定性的に考えなければならないものなのである。
LTCMの失敗から、ロシア財務危機やリーマンショックなどの株価予想はソロス氏や筆者などのグローバルマクロ戦略の定性分析に残され、統計的な投資戦略の活躍の場はルネッサンス・テクノロジーのクオンツ投資のような場所に集約されることになった。
ルネッサンス・テクノロジーのやり方では長期予想は出来ず、短期トレードに集中していることが知られる。
これはAIに株価予想ができない理由でもある。人間の脳はまだまだ用途があるようだ。
ジョージ・ソロス